本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
天文20年(1551)に、大内義隆側室花の方が建立したとされる恩徳寺。境内にある結びイブキは高さ6mで、地上2mのところで多くの枝に分かれ、地上約2.5mで、多数の枝が互いに絡み合った珍しい樹形をしています。形態学的に学術価値が高いことから天然記念物に指定されています。
また、あじさい寺とも呼ばれているようで、6月には境内に紫陽花が咲き誇ります。
恩徳寺前の道はかなり狭いので注意が必要。そして専用駐車場が無いので、近くの肥中港に停めて歩くことに。
歩くとは行っても、すごく近いけど。しかし、目の前には急な石段が。あ、結構高い位置にあるのね(笑)
そんなに疲れるわけではないけど、上がりきった所から見ると高く感じる。こちらが、結びイブキ。根回り3.9m、目通り2.9m。枝張り5.5mの所で何本にも分かれており、その枝が屈曲交錯している。
いいなあ、この見応え感。新日本名木百選にも選定されている。この結びイブキには「お花と重蔵」という伝説が残されている。
現地の説明板及び、ふるさと豊北の伝説と昔話「第二集」で読むことができる。「お花と重蔵」
江戸時代、肥中は北前船などが出入りする重要な港だった。その人たちを相手に、鋳物師、茶屋、湯女風呂などがあった。
戦災から逃れるため身重のままこの肥中に逃れ、義隆の霊を弔うために剃髪して恩徳寺を建てたという。
子どもはじきに生まれたが産後の肥立ちがわるく、子どもを残したまま死んでしまった。赤ん坊は「お花」と名付けられ、鋳物師の叔父に預けられたが、商売がうまくゆかず、借金のかたに売られて遊女になったという。重蔵は海の番所の役人だったが貧しい家の生まれで幼い時に両親と死に別れた寂しい身の上だった。その重蔵とお花が知り合い、お互いに愛するようになった。
二人は幸せだったが、その幸せも長続きしなかったお花が重い病にかかり、病を治すには身請けするしかないと思蔵は思った。それには、たくさんのお金が必要だったそんなとき、幕府が朝鮮に特使を派遣することになり、都から偉い僧侶がやって来た。重蔵は、その一行の献上品を盗み、それを売って、お花を身請けするつもりだった。
その夜、重蔵は宿に忍び込んだが見つかってしまった。僧侶の前に連れていかれた重蔵は、その悲しい運命を話した。僧侶はやさしくうなずくと、重蔵に弟子となって朝鮮についてくるように命じた。「3年後、必ず帰って来るから待っていてくれ」重蔵は、お花にそう言い残して、旅に出た。
お花は重蔵が旅だってからは毎日、恩徳寺に参り重蔵の無事を祈った。境内にある「さすり地蔵」の顔が、のっぺらぼうになっているのは、そのせいかもしれない。
しかし、3年たっても、5年たっても、重蔵は帰ってこない。そのうち、何十年が過ぎた。ある秋の日、肥中港は「偉い僧侶がかえって来た」というのでわきたっていた。
僧侶は静かに港に降りると弟子を引き連れ、恩徳寺に参った。そのお境内で僧侶は石を積んだ小さな墓を見つけた。墓には、「お花の墓」と書いてあった。
僧侶はその墓をしばらく見ていたが、弟子に命じて、朝鮮からみやげとして大切に持ち帰って来た「イブキ」の苗を、その墓のもとに植えさせた。僧侶は、そのまま都に入り、80歳で亡くなるまで人々に慕われたということだ。80歳で死ぬときに一つだけ遺言があった。
「肥中という港の丘にある「お花の墓」の隣に名もない者として自分を葬ってほしい」という内容だった。弟子たちは遺言により骨を埋めた。今、そのお花の墓があったところにイブキが大きく育っている。まるで紐で結んだように曲りくねっている。どうしてこうなったのか誰も知らない。
しかし、それ以来、愛し合っている2人が一緒にこのイブキに触れると『きっと結ばれる』と、言い伝えられている。
…切ない伝説だね。恩徳寺の結びイブキと紫陽花
旅をした日
2013年05月14日
2015年06月21日
………………………………………駐車場
無し
………………………………………日本百選
新日本名木100選(1990)
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
角島大橋・海士ヶ瀬公園
………………………………………最終更新日
2024/10/14
内容追記