本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
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幕末の画家であり、松下村塾門下生の一人である松浦松洞(まつうら しょうどう)。安政6年(1859)5月に、江戸に送られる直前の吉田松陰の肖像を描いた人物として知られています。
現在は誕生地に石碑のみが残っています。
松浦松洞(1837~1862)
1837年に萩の松本で魚商の子として産まれた松洞。
幼いころから絵を描くのが得意で、画家・羽様西崕(はざま せいがい)に学び、上京して四条派の小田海僊(おだ かいせん)に師事する。
安政3年(1856)、吉田松陰主宰の松下村塾に入門し、安政6年(1859)5月に江戸に送られる直前の吉田松陰の肖像を描いた。
文久2年(1862)、久坂玄瑞や前原一誠らとともに上京し、公武合体論を主張する長州藩の長井雅楽(ながい うた)の暗殺を計画するが失敗。時事に憤慨し、同年5月11日に京都粟田山で自決した。享年26。吉田松陰からは「才あり気あり、一奇男子なり」と評された。さて、松浦松洞が暗殺を計画をした長井雅楽(ながい うた)とはどんな人物なのだろうか。
長井雅楽(1819~1863)
雅楽は毛利敬親から厚い信任を受け、長州藩の直目付へ。
雅楽は開国論者で、文久元年(1861)に「航海遠略策」を藩主に建白し、藩論とされた。
この案は幕府・朝廷の公武合体派から歓迎されるが、吉田松陰や門下生の「尊王攘夷派」との対立も強まり、久坂玄瑞や松浦松洞らに暗殺を計画されることになる。
文久2年(1862)、公武合体派の勢力が弱まり、攘夷派の勢力が盛り返すと、攘夷派の朝廷工作を受け長井の説は朝廷を誹謗するものとみなされ、毛利敬親から帰国謹慎を命じられることになった。
文久3年(1863)、長州藩の責任を全て取る形で切腹を命じられる。雅楽を支持する藩士は多く雅楽本人も納得してはいなかったが、藩論が二分され内乱が起きることを憂い切腹を受け入れ同年2月に切腹。享年45。
現在、旧宅跡は県道262号線沿い(萩バイパス)に石碑を残すのみになっている。