本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
吉田松陰の叔父にあたり、松下村塾創設者でもある玉木文之進。前原一誠が起こした萩の乱で多くの門下生が参加したことから、その責任を取り自刃しました。
旧宅は現在も残されており、8畳の座敷のほか4畳の畳部屋、玄関、板間と土間の台所などが残されています。
玉木文之進(1810~1876)
文化7年(1810)に杉家の3男として生まれ、文政3年(1820)に玉木家の養子となり家督を継ぐ。
長州藩の代官で活躍し、郡奉行にも抜擢されるが、安政6年(1859)の安政の大獄で捕縛された松陰の助命のために奔走。しかし松陰は処刑され、連座して文之進も翌年に代官職を剥奪された。
文久3年(1863)から再び藩政に加わり、藩内では尊王攘夷派として行動。実子の玉木彦助は奇兵隊に入隊し、大田・絵堂の戦いで負傷し自刃。
明治2年(1869)、隠居した文之進は松下村塾を再開し、子弟の教育にあたった。
全国的に維新の改革により士族たちの不満が渦巻き、萩藩でも士族の不満は高まる中、明治9年(1876)の秩禄廃止(秩禄給与の全廃政策)により士族の不平不満が爆発し、明倫館を本営として前原一誠が挙兵、萩の乱が起こる。この萩の乱には松下村塾門下生が多く関わっており、責任を取る形で、文之進は先祖の墓の前で自害。介錯は松陰の妹・千代だった。享年67。
塾は閉鎖となったが、松陰の兄・杉民治が明治13年(1880)頃に再開している。家の中にも無料で見学できるようになっている。中には玉木文之進の肖像画も飾られている。
最期は「自己の教育責任を、一死以ってこれを償ふ」と言い自害したんだとか。
教育に厳しかった文之進の子弟から多くの反乱者(萩の乱)が出たことは、さぞ無念だったに違いない。