山口県の観光スポット、穴場スポット、グルメ&お土産情報を紹介しています。桜や紅葉、四季の花々等、目的別の旅もおすすめ。

本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪

山口県の風景(萩市)

吉田松陰誕生地・吉田松陰の墓ならびに墓所

吉田松陰の実家・萩藩士杉家の旧宅地は、「団子岩」と称され、萩城下が一望できる風光明媚な場所にあります。松陰は、天保元年(1830)8月4日、杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男としてここに生まれ19歳まで過ごしています。

付近には吉田松陰の墓ならびに墓所があり、杉家、吉田家、玉木家、久坂家、高杉晋作など松陰とゆかりの深い人々の墓が立ち並んでいます。

吉田松陰カレンダー

⇐最近は毎年購入している吉田松陰カレンダー。

吉田松陰
文政13(1830)年~安政6(1859)年 享年30杉百合之助の次男として生まれ、4歳の時に叔父の吉田大助の養子となる。6歳のときに大助が亡くなると吉田家を継ぎ、松下村塾の創始者の叔父の玉木文之進から指導を受ける。

19歳で藩校の明倫館の師範となり、さらに西洋兵学を学ぶため江戸に出て佐久間象山に師事。嘉永6(1853)年、佐久間象山とともに浦賀に来航したペリーの黒船を目撃し、海外留学を決意するも幕府からは黙殺。そこで、ペリーが再来航した翌年の安政元年に下田で弟子の金子重之輔と共に密航を図るが、アメリカと幕府間で日米和親条約を結んだばかりということもあって外交的判断からペリーに拒否され失敗。
野山獄跡

密航の罪により長州へ送り返された松陰は牢獄の野山獄に入牢する(野山獄跡⇒)

その後、出獄するまでの1年2ヶ月ほどのうちに勉学に励んだ松陰は600冊以上の書物を読破。囚人たちを相手に「孟子」を講義するが、囚人たちの生徒にもなって、彼らの得意分野の教えを受けた。
松下村塾安政2(1855)年12月15日、出獄した松陰は実家の杉家に幽閉となるも、近隣の子弟に講義を続け松下村塾の主宰となる。
松下村塾の塾生たち松下村塾の入学には身分の制限がなく、下級武士や一般庶民の子弟が多く集まり、後の明治維新の立役者となる高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら多くの人材を育てた。(講義の様子は道の駅萩往還の松陰記念館のもの)

安政5(1858)年、幕府の大老・井伊直弼が朝廷に無断で日米修好通商条約に調印したことにより松陰は激怒。幕政批判を開始していく。その中で老中の間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺を計画をするが、藩はそれを容認せず再び野山獄に投ぜられた。

そして安政6(1859)年、尊王攘夷派を粛正する井伊直弼の独裁政治「安政の大獄」のさなか、江戸の伝馬町獄へ送られ、10月27日に処刑された。

辞世の句
松陰は処刑一週間前の10月20日に父・叔父・兄らに宛てた書状の中で歌を詠んでいる。
親思ふこころにまさる親こころ けふの音つれ何ときくらん
自分が親を思う心より、親はそれ以上に自分のことを思ってくれている。
自分の死罪ををどんな思いで知るだろうか。

弟子に宛てた句、25日から26日にかけて門弟に向けた遺書「留魂録(りゅうこんろく)」の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」が有名。
私の身が、たとえ武蔵国の野に朽ち果てても、私の大和魂だけはこの世で生き続ける。

2014年1月24日に新聞各紙で新たにもう1通見つかったと報じている。
此程(これほど)に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)をけふきくこそ嬉(うれ)しかりける
これは処刑当日の刑場に引き立てる役人の「呼び出しの声を聞きて」の前書きで、
「死を覚悟しており、今日やっとその日が来てうれしい」という意だそうだ。
松陰誕生地

文政13(1830)年8月4日、杉百合之助の次男として生まれ19歳まで過ごした地。

4歳の時に叔父の吉田大助の養子となっているが、実家からは離れていない。
松陰誕生地

残念ながら当時の旧宅は嘉永6(1853)年に杉家が転居した後にいつしか失われたらしい。

大正11(1922)年に当時の間取りを示す旧宅の敷石が、後に住んでいた人の記憶によって復元されている。

間取りは玄関3畳、表座敷6畳、居間6畳、隠居部屋3畳、納戸3畳、台所。
そして別棟の納屋と馬小屋。敷石を見てあまりの狭さに驚くが、松陰の父の合之助を始め、母、2歳上の兄、妹3人に弟もいたと聞いてさらに驚いた。

ちなみに、2015年大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公・文は四女で松陰の14歳年下の妹。
吉田松陰産湯の井戸吉田松陰産湯の井戸。
吉田松陰先生誕生之地

「吉田松陰先生誕生之地」石碑。
この石碑は松下村塾の門下生であり、第3・9代の内閣総理大臣にもなった山県有朋が揮毫。

肩書は内閣総理大臣ではなく、「門下生・山県有朋」となっているので、師に対する謙譲の気持ちが表れている
団子岩から萩市街地の眺め旧宅地は、団子岩と言われる丘陵地にあり萩城下が一望できる風光明媚な場所。中央に見える山は指月山。城下町からは直線で4km離れている。
吉田松陰先生銅像

松陰誕生地そばには、吉田松陰先生銅像が建てられている。弟子の金子重之輔を従え、下田沖に現れたペリーの黒船を見つめている。

銅像は昭和43(1968)年年、明治維新100周年を記念して建立された。
吉田松陰先生銅像

金子重之輔
下田で師の吉田松陰と共に密航を図るが失敗し密航の罪により長州へ送り返された。松陰は上牢の野山獄に投獄されるが、金子は下牢の岩倉獄。

萩への移送の途中で体調を崩すが、士分ではないがために十分な手当ても受けられず獄死。
団子岩の桜さて、この団子岩は桜の名所としても知られている。
団子岩の桜団子岩の桜

松陰誕生地の敷地内を出ると、目の前には満開できれいなソメイヨシノ30本が広がる。
団子岩の桜

松陰の旧宅地より少し降りたところにはベンチが設置されている。平日にもかかわらずお花見客が多い。

周辺では松陰神社や東光寺も桜の名所なので、春は松陰と桜めぐりの旅が楽しい♪
吉田松陰の墓ならびに墓所松陰誕生地横には墓所がある。大河ドラマ「花燃ゆ」が決定していたので旗も掲げられていた。
墓所

杉家、吉田家、玉木家、久坂家、高杉晋作など、松陰とゆかりの深い人々の墓が立ち並ぶ墓所。

ここでもボランティアガイドに時間をかけて色々と詳しく教えていただきました。
吉田松陰の墓

吉田松陰の墓
高杉晋作や久坂玄瑞など松下村塾の門人が故人の霊を弔い遺髪を埋葬している。墓碑には「松陰二十一回猛士」とあるが、杉家の杉の字を十と八と三に分解し足すと二十一になることから考えられている。猛士は、松陰が生まれた時の通称。

死ぬまでの間に21回の行動を起こすという誓いを込めた号なのだという。

自分が死んでも門弟が二十一回の行動の意思を継いでくれるはずだというメッセージを込めて遺書に「二十一回猛士」と署名している。この号を用いはじめたのは野山獄入牢中で、これまでに脱藩、浪人の身の上での藩への上書、密航未遂の3回ほど行動を起こしていた。その後の老中の間部詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺計画等も行動の一つではあるが、21回の行動を起こせぬまま処刑となってしまった。

墓前の水盤や花立は、門人たちが名前入りで寄進したものだけど、罪人であった松陰に対して名前を刻んでの寄進は、当時では切腹ものと言われるほど勇気のいる行動だったとのこと。それだけ松陰が慕われていたってことだね。
久坂玄瑞の墓高杉晋作の墓

松下村塾の双璧、久坂玄瑞の墓(左)や、高杉晋作の墓(右)。
INDEX

吉田松陰誕生地

旅をした日
2005年11月25日
2012年04月08日
2012年11月08日
2014年10月15日
2017年04月09日
………………………………………駐車場
有り(無料)
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
東光寺の桜
陶芸の村公園の玉縄桜と河津桜
陶芸の村公園のハギのトンネル
伊藤博文旧宅・伊藤博文別邸
玉木文之進旧宅
吉田稔麿誕生地
松陰神社・松下村塾
………………………………………参考文献
吉田松陰と松下村塾(別冊宝島)
………………………………………最終更新日
2021/05/15
内容一部変更


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