松陰神社・松下村塾
吉田松陰を祀る神社で、明治40年(1907)に松下村塾門下生の伊藤博文らにより建立されました。現在の社殿は昭和30年に完成。御神体として松陰愛用の赤間硯と父叔兄宛に書かれた書簡2品が祀られています。
松下村塾は松陰神社境内にあり、吉田松陰が主宰した私塾。入学には身分の制限がなく、下級武士や一般庶民の子弟が多く集まり、後の明治維新の立役者となる高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら多くの人材を育てました。2015年7月5日、松下村塾が世界遺産に登録されました。
⇐最近は毎年購入している吉田松陰カレンダー。
吉田松陰
文政13(1830)年~安政6(1859)年 享年30。杉百合之助の次男として生まれ、4歳の時に叔父の吉田大助の養子となる。6歳のときに大助が亡くなると吉田家を継ぎ、松下村塾の創始者の叔父の玉木文之進から指導を受ける。
19歳で藩校の明倫館の師範となり、さらに西洋兵学を学ぶため江戸に出て佐久間象山に師事。嘉永6(1853)年、佐久間象山とともに浦賀に来航したペリーの黒船を目撃し、海外留学を決意するも幕府からは黙殺。そこで、ペリーが再来航した翌年の安政元年に下田で弟子の金子重之輔と共に密航を図るが、アメリカと幕府間で日米和親条約を結んだばかりということもあって外交的判断からペリーに拒否され失敗。
密航の罪により長州へ送り返された松陰は牢獄の野山獄に入牢する(野山獄跡⇒)
その後、出獄するまでの1年2ヶ月ほどのうちに勉学に励んだ松陰は600冊以上の書物を読破。囚人たちを相手に「孟子」を講義するが、囚人たちの生徒にもなって、彼らの得意分野の教えを受けた。
安政2(1855)年12月15日、出獄した松陰は実家の杉家に幽閉となるも、近隣の子弟に講義を続け松下村塾の主宰となる。
松下村塾の入学には身分の制限がなく、下級武士や一般庶民の子弟が多く集まり、後の明治維新の立役者となる高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら多くの人材を育てた。(
※講義の様子は
道の駅萩往還の松陰記念館のもの)
安政5(1858)年、幕府の大老・井伊直弼が朝廷に無断で日米修好通商条約に調印したことにより松陰は激怒。幕政批判を開始していく。その中で老中の間部詮勝(まなべ
あきかつ)の暗殺を計画をするが、藩はそれを容認せず再び野山獄に投ぜられた。
そして安政6(1859)年、尊王攘夷派を粛正する井伊直弼の独裁政治「安政の大獄」のさなか、江戸の伝馬町獄へ送られ、10月27日に処刑された。
辞世の句
松陰は処刑一週間前の10月20日に父・叔父・兄らに宛てた書状の中で歌を詠んでいる。
「親思ふこころにまさる親こころ けふの音つれ何ときくらん」
自分が親を思う心より、親はそれ以上に自分のことを思ってくれている。
自分の死罪ををどんな思いで知るだろうか。
弟子に宛てた句、25日から26日にかけて門弟に向けた遺書「留魂録(りゅうこんろく)」の「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」が有名。
私の身が、たとえ武蔵国の野に朽ち果てても、私の大和魂だけはこの世で生き続ける。
2014年1月24日に新聞各紙で新たにもう1通見つかったと報じている。
此程(これほど)に思定(おもいさだ)めし出立(いでたち)をけふきくこそ嬉(うれ)しかりける
これは処刑当日の刑場に引き立てる役人の「呼び出しの声を聞きて」の前書きで、
「死を覚悟しており、今日やっとその日が来てうれしい」という意だそうだ。
松陰神社境内はかなり広い。松下村塾、吉田松陰幽囚ノ旧宅、花月楼、吉田松陰歴史館、宝物殿「至誠館」、松陰食堂などがある。
吉田松陰を祀る神社。
2014年以降は、萩市旅の際は必ず立ち寄るようになったなあ。ご利益は学業成就、家内安全。交通安全。
社殿左には松下村塾門下生を祭神とした松門神社がある。
こちらは1956年に創建。
松下村塾(世界遺産)
松陰の叔父である玉木文之進が天保13年(1842)に自宅で私塾を開いたのが始まりで、少年時代の松陰も通っている。その後、松陰の外叔・久保五郎左衛門が引き継ぎ野山獄を出獄した松陰は久保の補佐となる。
次第に松陰の講義に人々が集まるようになり、松下村塾の主宰となっていった。安政5年(1858)3月に増築して18畳の塾舎が完成。松下村塾の入学には身分の制限がなく、下級武士や一般庶民の子弟が多く集まり、後の明治維新の立役者となる高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文ら多くの人材が輩出された。
ちなみに松下村塾の名称は、当時この地域が松本村と呼ばれていたことに由来する。
2015年7月5日、世界遺産に登録された。
松下村塾を覘いてみると、松下村塾門下生の肖像画が展示されている。
松下村塾での講義の様子は、
道の駅萩往還の松陰記念館で展示されている。
今の学校教育ではみんなが一斉に同じ内容を勉強するが、松陰の指導は門人達の求めに応じて一人一人が別々に指導を受ける形で行われていた。
松陰自身が「わたしは、落ち着いて、ゆっくりと話して聞かせ、自分で気づいたり、自分自身が反省したりすることができるように心掛けている」と語っているように門人に対して丁寧な言葉でやさしく語りかけました。
「学者になってはいけない。人は実行が第一だ」と松陰はよく語っています。-松下村塾講義室復元説明板より-
松陰は嫌煙家
松陰は嫌煙家で、周囲の人が喫煙することも嫌ったという。煙は他人の迷惑となるばかりか、キセルを斜めに構えて吸う遊び人風の風習が身に付くと、士風が衰えるというのが理由らしい。煙草を吸っても腹の足しにもならないとも。煙草を吸う塾生がいると、キセルを取り上げて紐で縛り、天井に吊るして禁止したとのこと。
吉田松陰幽囚ノ旧宅
天保年間に建てられた、松陰の実家である杉家の旧宅。松陰神社境内にあるので移築されたものと思ってしまうが、当時からここに建っている。
野山獄に投ぜられた松陰が安政2年(1855)に出獄して実家預けとなり、3畳半の一室に幽閉されることになった。読書と著述に専念した松陰は、幽囚室で孟子などを講じて、次第に講義に人々が集まるようになり、松下村塾の主宰となっていった。
花月楼
江戸時代の茶室で、7代藩主毛利重就(しげたか)が安永5年(1776)に三田尻(防府市)の別邸内に建築したもの。明治21年(1888)、松下村塾門下生の一人、品川弥二郎が重就の遺徳を偲び、自宅に保存していたものを昭和34年(1959)に境内に移築。
松陰神社に季節は関係ないんだけど、春はすぐその川沿いの桜並木がきれい。すぐ近くにある東光寺や松陰誕生地も桜がきれいなので、春に訪れるのも良い。
この桜並木の下を散歩がてら歩いている人も多い。そのまま東光寺や松陰誕生地まで歩いて行ける。桜並木はそこまで続いてないんだけど、きっと気持ちがいい汗がかけるだろうな♪
2017年は県内各地で一気に満開を迎えたけど、生憎の雨となった萩市の旅。だけど、松陰神社でお参りしたら止んでくれた♪
3年ぶりの萩市の桜巡り。
前回は一人旅だったけど、今回は旅相棒と楽しんだ。
松陰神社の境内には見応えある藤棚もある。2018年は気温が高くて、藤の花の開花も早く、4月18日には満開を迎えていた。
藤棚横に花月楼があるので、一緒に撮ると絵になるよね
松陰神社の藤は勢いがあって見応えがあるので、藤のシーズンに訪れてみてはいかがかな?
もしここで満開の藤を見ることができたら、指月公園の藤棚も見に行ってみるといいだろう。
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