本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
「大田・絵堂戦役」は、元治2年(1865)1月6日から16日にかけて大田・絵堂の地(美祢市美東町)で起きた長州藩の内乱で、幕府に恭順を示す萩政府軍と長州藩諸隊の10日間の戦いです。美東町大田にある金麗社は諸隊本陣が置かれた場所で、高杉晋作や伊藤博文、山県有朋らが作戦会議をしたことから「明治維新発祥地」として知られています。
「大田・絵堂戦役」の諸隊本陣が置かれた場所で、大田・絵堂戦役地巡りの旅では一番に立ち寄っておきたい。とは言っても全部を見て回るには車移動が必要で、時間は多少かかる。
自分も未だに一部の史跡しか見ていない。まず諸隊の一つ「奇兵隊」を説明しておくと、文久3年(1863)6月に高杉晋作により結成された軍事組織。下級武士や庶民など身分を問わず結成された部隊は士気が高く、討幕への原動力となっている。
※写真は下関市吉田の奇兵隊陣屋跡の奇兵隊士の像。軍服は洋式で軽装。機動力を重視した戦術をとっていた。萩にゃん。も奇兵隊の隊服を着用しているね。憧れの人は高杉晋作。
長州藩諸隊には、奇兵隊、結成当初は第二奇兵隊と称し、一時は遊撃隊にも属していた膺懲(ようちょう)隊、来嶋又兵衛が初代総督の精鋭部隊である遊撃隊、銃隊を中心に組織した八幡(やはた)隊、山田顕義や品川弥次郎らが活躍した御楯(みたて)隊、南園隊等がある。金麗社境内にも諸隊ののぼりが立てられている。
さて、「大田・絵堂戦役」は、元治2年(1865)1月6日から16日にかけて大田・絵堂の地で起きた長州藩の内乱で、幕府に恭順を示す萩政府軍と諸隊の10日間の戦い。この戦いで諸隊が勝利していなかったら明治維新が起こらなかった可能性もあるほど重要な戦いであった。絵堂の開戦
1月7日未明に諸隊士が奇襲を開始し、戦いの火蓋が切られた。門にはそのときの銃弾跡が残されている。
同じく絵堂にある養泉寺は、開戦時は荻野隊の宿陣地。諸隊に属してはいるが中立的な立場を取った隊である。隊士とは親交もあり、養泉寺の門前の松に隊名を標した提灯を掲げていたので攻撃されなかった。
開戦前から諸隊から再三の勧誘は受けていたが態度を保留。後に萩政府軍側に就いたことで、萩政府軍側の先鋒として戦うこととなった。長登戦
10日の午前中は、萩政府軍側に就いた荻野隊を先頭に300名が下ノ峠(しものたお)から進軍。土地ヶ峠(とちがたお)を守備していた膺懲(ようちょう)隊は後退して防戦。
奇兵隊が幣振坂(へいふりざか)から下ると、萩政府軍は側面を突かれる形となり陣営が乱れた。
そこに八幡隊と南園隊が救援に駆けつけ、夕暮れ時には萩政府軍は敗退した。写真は川上口の大田・絵堂戦跡記念碑。10時頃に八幡隊と合流し、呑水堤の土手を盾にし戦うも苦戦。しかし12時頃になると、南園隊が駆けつけ東側の小山中に登り高所から射撃。続けて奇兵隊第二銃隊が大木津(おおこつ)から駆けつけ側面攻撃を行い一気に形勢が逆転した。
さらに、降り続ける雨で萩政府軍の火縄銃が役に立たず、諸隊が使用していた洋式のミニエー銃が威力を発揮し、萩政府軍は総崩れとなり赤村へ後退した。赤村の戦い
16日18頃、14日から15日にかけて合流した高杉晋作率いる遊撃隊と諸隊が、萩政府軍の本陣としていた正岸寺を夜襲。
大田・絵堂戦役
旅をした日
2006年06月03日
2011年11月21日
2013年11月15日
2014年05月28日
2016年11月13日
2018年04月01日
2020年10月25日
2022年11月20日
2023年11月26日
………………………………………駐車場
金麗社(有り)
奇兵隊陣屋跡(有り)
功山寺(有り)
萩政府軍本陣跡(有り)
養泉寺(有り)
下ノ峠(無し)
大木津(無し)
川上口(無し)
呑水峠(無し)
正岸寺(有り)
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
金麗社
道の駅みとう
………………………………………最終更新日
2024/07/23
新しく追加