本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
5代の藩主に仕え天保の改革を実施し、財政難であった長州藩の藩政改革に手腕を振るった村田清風(むらたせいふう)。人材の養成にも力を注ぎ、後継者の周布政之助や吉田松陰に影響を与え、明治維新の礎を築いた人物として知られています。
清風が生まれた家は現在も残されており、1855年(安政2)に病死するまで過ごしています。隣には村田清風記念館もあり、清風の遺品や周布政之助に関連した品々が展示されています
村田清風(1783~1855)また、人材の養成にも力を注ぎ、後継者の周布政之助や吉田松陰に影響を与え、明治維新の礎を築いた人物として知られている。
一度は隠居するも、安政2年(1855)に周布政之助の要請により再び藩政に携わる。こちらが清風の生家。ずっとこの家に居たわけではなく19歳まで過ごした後に萩に移り住んでいる。再び家に戻ってきたのは弘化2年(1845)で、死去するまでここで過ごしたらしい。
現在は国の史跡に指定されているおじゃましま〜す(入れないけど)
さて、この家があるのは長門市三隅の下沢江。清風は幼少時代にこの家から萩市の明倫館までの道のり約20kmを毎日徒歩で往復したんだとか。とてもじゃないが真似できん(笑)さて、旧宅横には村田清風記念館がある。館内は村田清風及び、清風の改革の後を受け継ぎ、革新的政治家として藩内外の志士を指導し、難局した藩政の舵取りをした周布政之助の生涯や業績をパネルで紹介、遺品等を展示している。
パネルでの展示では、幅広い年齢層に対応できるようストーリー性や漫画が使われている。周布政之助(1823~1864)
村田清風の影響を受けた人物。清風の死後は改革を受け継ぎ、革新的政治家として藩内外の志士を指導、幕末期の長州藩の実質的指導者(尊王攘夷派)として、難局の舵取りを行った。長州ファイブをイギリス密航留学へ送り出したのも周布政之助であり、日本の近代産業の発展にもつなげた。
1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカ四国との武力衝突事件、いわゆる下関戦争の勃発後、高杉晋作とともに改革派と保守派の藩士の暴発を抑えようとするも失敗。その後に起こる禁門の変や第一次長州征伐も事態の収拾に奔走するも、実権を椋梨藤太ら保守派に奪われる。苦難が続く長州藩。その責任を感じた周布政之助は9月26日深夜、山口矢原の庄屋・吉富藤兵衛邸(現・山口市辛町)にて自刃。享年42歳。
墓は自刃の地に近い石州街道のそばに建てられ、後に近くに顕彰碑が建てられる。2018年は明治維新150年ということで、村田清風の特製しおりがもらえた。裏には文のイラストも描かれている。
周布政之助の特製しおりは、2015年5月訪問時に貰ったもの。こちらはイラストの村田清風と、詠んだ歌が書かれたクリアファイル。「来てみれば 聞くより低し 富士の峯釈迦も孔子も かくやあらん」
近くに来て見ると、噂に聞いていたより富士山は低い。お釈迦様や孔子様も偉いお方と聞いているが、これと同じだろう。手の届かないことと思っていたが、自分も努力してやれば出来る。村田清風旧宅(三隅山荘)
旅をした日
2014年10月29日
2015年05月06日
2018年05月09日
………………………………………村田清風記念館・開館時間
9:00~17:00
但し入館は16:30まで
………………………………………休館日
・毎週火曜日
祝日の場合は開館・翌日平日休館
・年末年始
………………………………………観覧料
一般:200円
小中高生:100円
長門市民及び市内の学校の児童
生徒は無料
………………………………………駐車場
有り
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
やまぐちオリジナルユリ
桜楓山荘跡(楫取素彦旧宅)
みすゞ公園の桜
………………………………………最終更新日
2022/07/03
周辺の立ち寄りスポットに
桜楓山荘跡(楫取素彦旧)を追加