本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
堀内地区、浜崎地区と並び、国指定重要伝統的建造物群保存地区の平安古(ひやこ)地区。選定地区は、橋本川に沿った東西約150m、南北約300mの範囲で、藩政期の地割をよく残し屋敷跡など往時の面影が今も残っています。地域独特の左右を高い土塀で囲み、見通しのきかない鍵曲(かいまがり)といわれる鍵手形道路が残り、土塀と夏みかんの風景は萩市ならでは。
また、平安古地区の北側入り口、191号線沿い近くにはきれいな枝垂れ桜が咲き誇り、橋本川沿いの遊歩道を散歩する楽しみの一つ。
平安古地区の高い土塀で囲まれた鍵手形道路、鍵曲(かいまがり)。
道が鍵の手に曲がっているので、一見行き止まりのような錯覚に陥ってしまう。
土塀の向こう側は、かんきつ公園となっている。土塀上から夏みかんがのぞく景観は、萩市ならでは。
同じく重要伝統的建造物群保存地区の堀内地区でも鍵曲と夏みかん景観を見ることができる 。さて、夏みかん風景がなぜ萩市ならではなのか。それは、明治時代の萩藩で、夏みかんの栽培が奨励されていたため。小幡高政(1817~1906)の職を失った士族への救済処置によるもので、現在萩市に残る夏みかんの木は当時植えられたもの。
小幡高政(1817~1906)
1817年、藩士祖式家に生まれ、後に小幡家の養子へ。安政5年(1858)、萩藩の江戸留守居役になり、翌年、吉田松陰への死罪判決申し渡しの際に藩代表として陪席した。長州戦争(四境戦争)では芸州口に出陣。
明治9年に萩に帰郷し、生活に困窮した士族のために夏みかんの栽培に着手して「耐久社」を設立。産業化に成功すると、やがて屋敷跡地や畑は夏みかんの樹で埋め尽くされるまでに至った。明治30年代には、果実の生産高は萩町予算の約8倍に。
また、第百十国立銀行(現・山口銀行)の創立にも加わり2代目頭取にもなっている。邸内には小幡自身が明治23年に夏橙栽培の苦心を記した石碑「橙園之記」が建っている。
意味は説明板に書かれているので、引用しておこう。夏みかん畑は明治9年(1876)、この場所に初めて開かれました。その後、繁殖してこの畑の夏みかんは五百本余りになりました。最初は、私(小幡)が率先して夏みかんの栽培を推奨しましたが、その当時、萩で夏みかんを栽培している人はほとんどいませんでした。
人々は、私が夏みかんを栽培するのを疑いの目で見たり、嘲笑ったりしました。しかし、今日、夏みかんの栽培が盛んになるにつれ、そのような人々も、少しの空き地があれば夏みかんを栽培するようになりました。夏みかんは萩の名産となり、全国の多くの人々に好まれ、評判の果実となりました。
明治23年(1887)、有栖川熾仁親王殿下が視察に来られ称賛されました。これは大変名誉なことで、末永く橙園を保護し、この名誉を汚すことのないように勉めなさい。しだれ桜前に広がる、橋本川と遊歩道。この遊歩道はとても長く、川添河川公園よりさらに歩き続ければ桜並木を見ることができる。
桜並木は萩八景遊覧船から楽しむこともできる 。平安古の鍵曲と枝垂桜
旅をした日
2012年04月02日
2013年05月22日
2014年03月23日
2016年05月08日
………………………………………営業時間(かんきつ公園)
9:00~17:00
………………………………………休園日(かんきつ公園)
年末年始(12月229日~1月3日)
………………………………………料金
無料
………………………………………駐車場
無し(鍵曲り)
有り(かんきつ公園)
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
旧田中儀一別邸
かんきつ公園
久坂玄瑞誕生地
………………………………………最終更新日
2019/05/07
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