久坂玄瑞誕生地
松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一と共に「松門四天王」と称された幕末の志士、久坂玄瑞誕生地。旧宅は残されておらず、現在は三条実美が詠んだ追悼の和歌を刻んだ石碑が建てられています。
久坂玄瑞誕生地の見学は自由だけど、専用の駐車場はない。最寄りの中央公園駐車場(普通車310円)を利用するといいだろう。
そこからは、徒歩15分といったところかな。

現在は追悼の和歌を刻んだ石碑が残るのみで、詠んだのは長州に亡命(七卿落ち)した尊王攘夷派公卿の1人、三条実美(さんじょう さねとみ)。

中央公園の西入口広場には久坂玄瑞進撃像が建立されている。建立は花燃ゆが放送された平成27年(2015)1月。久坂玄瑞没後150年にあたる2014年から製作された。

久坂玄瑞(1840~1864)
藩医の三男として生まれた玄瑞は幼いころから秀才として知られ、藩の医学所・好生館では特待生に選ばれた。しかし医業をあまり好んでいなかった玄瑞は、安政4年(1857)に松下村塾門下生となる。同年12月、松陰は妹の文を玄瑞に継がせた。

松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一と共に「松門四天王」といわれる。松陰の死後は尊王攘夷派のリーダーとして奔走し、英国公使館焼き討ちや下関戦争などの攘夷活動を実行していく(写真は道の駅萩往還。左から高杉晋作、吉田松陰、久坂玄瑞)。

元治元年(1864)、前年(文久3年)の政変により長州藩が京都から追放されたことをきっかけに始まった禁門の変。玄瑞は朝廷の命に背くべきではないと兵を引き上げる案を出す慎重派だったが、武力をもっての上京を訴えた
来嶋又兵衛(きじままたべえ)が蛤御門で会津藩や薩摩藩と激突。
そのさなか玄瑞は鷹司邸にたどり着き、鷹司輔煕(たかつかさ すけひろ)に朝廷へ嘆願させて欲しいと要請したが輔煕はこれを拒否し鷹司邸を脱出。砲撃で炎上していた鷹司邸内で寺島忠三郎と互いに刺し違えて自刃。享年25(松下村塾に展示されている肖像画・久坂玄瑞は左上)。
久坂玄瑞誕生地から少し北上すると、同じく平安古にある久坂玄機誕生地の石碑を見ることができる。
観光マップに記載されていなかったので、危うく気づかず通り過ぎるところだった。

久坂玄機(1820~1854)は、20歳も歳の離れた久坂玄瑞の兄。 藩医としてとても優秀で、玄瑞とともに「坂家の連壁(ばんけのれんぺき)」と称されている。
平安古巡りをする際は立ち寄っておこう。
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