本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
萩で栽培されている夏みかん・甘夏・橙等を間近に見て触れ、身近に感じられる公園として整備された「かんきつ公園」。毎年5月上旬~中旬頃に甘い香りのする白い花が咲き、甘い香りに包まれます。
5月中旬の土・日には「萩・夏みかんまつり」も開催されています。![]()
萩市は夏みかん発祥の地として知られ、5月に咲く夏みかんの花は山口県の花に選定されている
かんきつ公園では夏みかん100本をはじめ、柑橘類10種約380本が植えられている。
さて、夏みかん風景がなぜ萩市ならではなのか。それは、明治時代の萩藩で、夏みかんの栽培が奨励されていたため。
小幡高政(1817~1906)の職を失った士族への救済処置によるもので、現在萩市に残る夏みかんの木は当時植えられたもの。小幡高政(1817~1906)
1817年、藩士祖式家に生まれ、後に小幡家の養子へ。安政5年(1858)、萩藩の江戸留守居役になり、翌年、吉田松陰への死罪判決申し渡しの際に藩代表として陪席した。長州戦争(四境戦争)では芸州口に出陣。
明治9年(1876)に萩に帰郷し、生活に困窮した士族のために夏みかんの栽培に着手して「耐久社」を設立。産業化に成功すると、やがて屋敷跡地や畑は夏みかんの樹で埋め尽くされるまでに至った。明治30年代には、果実の生産高は萩町予算の約8倍に。
また、第百十国立銀行(現・山口銀行)の創立にも加わり2代目頭取にもなっている。
かんきつ公園隣には、第26代内閣総理大臣を務めた田中義一の別邸があり、明治期は小幡高政の邸宅。

邸内には小幡自身が明治23年(1890)に夏橙栽培の苦心を記した石碑「橙園之記」が建っている。
意味は説明板に書かれているので、引用しながら旅をしたときに見た夏みかんや花を紹介していこう。
夏みかん畑は明治9年(1876)、この場所に初めて開かれました。
その後、繁殖してこの畑の夏みかんは五百本余りになりました。
最初は、私(小幡)が率先して夏みかんの栽培を推奨しましたが、その当時、萩で夏みかんを栽培している人はほとんどいませんでした。
人々は、私が夏みかんを栽培するのを疑いの目で見たり嘲笑ったりしました。
しかし、今日、夏みかんの栽培が盛んになるにつれ、そのような人々も、少しの空き地があれば夏みかんを栽培するようになりました。
夏みかんは萩の名産となり、全国の多くの人々に好まれ評判の果実となりました。

明治23年(1887)、有栖川熾仁親王殿下が視察に来られ称賛されました。これは大変名誉なことで、末永く橙園を保護し、この名誉を汚すことのないように勉めなさい。
明治23年7月日 藤原(小幡)高政記
