山口県の観光スポット、穴場スポット、グルメ&お土産情報を紹介しています。桜や紅葉、四季の花々等、目的別の旅もおすすめ。

本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪

山口県の風景(萩市)

高杉晋作誕生地

幕末の風雲児として知られる高杉晋作の誕生地。現在公開されている敷地は南半分で、現存する建物では座敷、次の間、居間、小室三畳、玄関が残されており、裏庭には産湯に使ったとされる井戸などが残されています。

高杉晋作高杉晋作(1839~1867)
天保10年8月20日、萩藩大組士・高杉小忠太の長男として生まれる。幼少時は私塾に学び、後に藩校明倫館、19歳で松下村塾に入門。頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称される。

文久2年(1862)、藩命により情勢視察で上海へ渡航。欧米による支配を目の当たりにし、日本も同じ憂いき目をみるのではないかと危機感を募らせ、翌年久坂玄瑞らと共に攘夷運動を行う。

下級武士や庶民など身分を問わない軍事組織「奇兵隊」を結成。初代総督になる。
功山寺決起

1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊による攻撃での敗北、禁門の変の敗走により、藩内は俗論派(保守派)が実権を握り、幕府に恭順の意を示すために攘夷派に対して粛正を始める。

身の危険を感じた晋作は九州に逃れるも、再び下関に戻ると功山寺に落ちのびていた三条実美ら卿を前に、これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申すと告げ、12月16日に功山寺にてわずか84名で決起。

萩藩新地会所を急襲後は、品川弥二郎や山田顕義なども呼応し、最後まで時期尚早と決起に反対していた山縣狂介(後の山縣有朋)も合流し、俗論派を退けることに成功する。その後、藩論を「武備恭順(表向きは幕府に従うが、武備は増強)」に統一し、一気に倒幕へと突き進む。
高杉晋作終焉の地

慶応2年(1866)年6月、第二次長州征伐(四境戦争)が始まると、晋作は海軍総督として小倉口で活躍。しかし、持病の肺結核が悪化し戦線離脱。翌年の4月14日に下関市新地にて討幕を見ることなく死去。享年29。

写真は「高杉晋作終焉の地」
萩城下町・菊屋横丁萩城下町・菊屋横丁

高杉晋作誕生地は萩城下町の菊屋横町にある。日本の道百選に選ばれているこの道は歩いていて気持ちがいい。ちなみに、菊屋家住宅の脇を通ることから菊屋横町と付けられている。
高杉晋作誕生地高杉晋作誕生地入口。
営業時間は9時~17時で、大人100円。不定休のようなので、遠方から来る場合は一応連絡して聞いてみた方がいいかもしれない。
高杉晋作誕生地現在公開されている敷地は南半分で、現存する建物では座敷、次の間、居間、小室三畳、玄関が残されている。中に入ることはできない。
高杉晋作誕生地裏庭には産湯に使ったとされる井戸が残されている。
高杉晋作誕生地庭に回ると、高杉晋作の遺品や書物を見ることができ、高杉晋作の写真や父・小忠太、母・ミチの写真の他に、妻・雅子、息子の東一の写真も見ることができる。
高杉晋作誕生地

スタンプ台も設置されているので、旅の記念に押しておこう。

台紙は用紙しておいた方がいいが、持ち合わせていなくても受付でもらえる「高杉晋作略伝」に押しておくといいだろう。
萩城下町・菊屋横丁萩城下町・菊屋横丁

さて、高杉晋作誕生地を出て再び萩城下町・菊屋横町を歩いてみる。青空の元で見ると最高の眺めだ♪ ここを歩いている晋作の姿が思い浮かぶ。
晋作広場高杉晋作誕生地のすぐ近くには「晋作広場」がある。ここには「高杉晋作立志象」が建てられている。
高杉晋作立志象立志象が建立されたのは、2010年10月。まだ新しい。立志象は松下村塾に通っていた20歳の頃の晋作で、両刀を差した羽織、袴の立ち姿だ。
INDEX

高杉晋作誕生地

旅をした日
2005年08月08日
2006年10月07日
2012年07月29日
2018年06月13日
………………………………………営業時間
9:00~17:00
………………………………………定休日
不定休
………………………………………料金
100円
………………………………………駐車場(最寄り)
中央公園駐車場(有料)
萩博物館駐車場(有料)
………………………………………日本百選(菊屋横丁)
日本の道100選(1986)
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
萩城下町
萩・竹灯路物語
萩にゃん。朝の城下町散歩
菊屋家住宅
木戸孝充旧宅
青木周弼旧宅
円政寺
………………………………………最終更新日
2025/05/23
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