本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
萩市の笠山と、笠山が陸続きとなった砂州の上に発達した越ヶ浜集落。天和元年(1681)に、漁村として作られたとされています。
現在も漁業集落ならではの密集した家並みや細い路地が残り、越ヶ浜の暮らしの歴史を見ることができます。
越ヶ浜を散策するには、笠山や明神池の観光がてらがいいだろう。明神池横に有料駐車場がある。そして、越ヶ浜おたからマップも用意しておこう。おたからマップは観光施設で手に入る。
越ヶ浜は夕なぎ湾と嫁泣湾に面しているが、砂州の上なので掘っても砂しか出てこないとのこと。杉民治(1828~1910)
長州藩士・杉百合之助の長男として生まれ、通称は梅太郎。吉田松陰の兄として知られる。幼少期は叔父の玉木文之進に師事し、後に玉木の松下村塾、藩校・明倫館で学ぶ。松陰を支え、処刑後は松陰の門下生を支え続ける。
1860年に杉家を相続し、安政の大獄(1859年)で免職(郡奉行所)となっていた藩に再び出仕。以降、浜崎宰判(現 萩市)の代官となるなどの功績をあげ、特に民政に手腕を発揮したことから藩主の毛利敬親から「民治」の名を与えられた。
明治4年(1871)の廃藩置県後は山口県権典事を務め、民政に力を尽くした後に辞職。1880年頃に松下村塾を一時再興し、松陰の御霊を祀る祠を建立(後の松陰神社)などした。明治25年(1892)、萩の修善女学校の校長に就任し、女子教育に力を注ぐ。明治43年(1910)に満82歳で亡くなった。漁村集落ならではの細い路地や、密集した家並みを見ることができる。
赤い格子戸は防腐等の為にベンガラを塗ってあるが、かつてはその家の嫁の仕事だったそう。ほう、確かに路地が細いし、家の密集がすごい。この辺りは、昔は潮が満ちてきていた場所らしく、「塩屋町」という言葉が変化して「シューヤ町」と呼ばれているそうだ。
※見学の際は、マナーを守って静かに見させていただきました。路地を海側に歩いて行くと、地蔵堂があった。子供が生まれる際に、お地蔵さまに腹掛けをかけて安産と成長を願ってきたんだとか。
毎年8月24日に、地蔵盆のお祭りが開かれている。この水汲みは主に女性や子供たちの仕事で、大変な重労働だった。
「嫁泣節」という地元の民謡には、「わたしゃ泣き泣き水汲みに」という歌詞があり、女性の水汲みのつらさがうたわれている。港のそばには小さな公園があり、東屋もある。公園の前は砂浜っぽくなっているので水遊びができる。
しかし、どうやら危険な生物がいるようなので(笑)、サンダルは履いて遊んでくれとのこと。写真中央に横切るのは国道191号線。
かつて、海岸には道のない石の浜が続き、越ヶ浜の人々が水汲みをする「カワ」と呼ばれる水の湧く場所がこの辺りにあったらしい。越ヶ浜で最も盛んな漁法のひとつ、延縄漁。地元ではナガノォ(長縄)とも呼ばれ、長い幹縄に枝のように釣糸を付け、その一本一本に釣り針を結び、エサを付けて沈めることで、広い範囲の魚を一度に釣ることができる。
次の漁に備え、ナガノォの桶が並べられていた。こちらは嫁泣港とは反対にある「夕なぎ港」。嫁泣湾と夕なぎ湾は風の影響を受けにくいため、昔から船をつなぎ止める港として利用されている。
萩城下として栄えた江戸時代では、荷物を運ぶ船(回船)が風の影響を受けにくい越ヶ浜の港をよく利用しており城下の人々の生活や萩藩の経済を支える重要な港だったまだ越ヶ浜には見るところがあったんだけど、この後道の駅阿武町に行くことになっていたので、時間の都合上ここまで。
駐車場横には明神池や風穴があるので、見どころ豊富だ