日和山公園の桜
下関市街地の小高い丘に位置し、関門海峡や巌流島、響灘、北九州が一望できる日和山公園。大正天皇御即位の記念公園として造られ、下関市で最も古い公園です。
桜の名所としても有名で、高杉晋作陶像を囲むように約220本の桜が咲き誇ります。
さあ、久しぶりに旅をしてきた日和山公園。前回が2006年だから、実に16年ぶり!
山口県の旅の中でも、旅の開きが長い名所の一つであろう。
あ、魅力がない公園とかではないよ。個人的には好きな公園の一つではあるんだけど、
大正天皇御即位の記念公園として造られ、下関市で最も古い公園ということで駐車場がない。これは旅としてはかなり不便。
今回は紅葉稲荷神社近くのコインパーキング(サンパーキング)を利用して、てくてく歩いての旅だった。ちょっと坂道を歩いて疲れるけど仕方ない。
まあ、これだけの青空と満開の桜を見れば疲れなんてなくなるな。
さて、日和山公園は高杉晋作陶像を囲むように桜が咲いている。
高杉晋作陶像は、昭和31年(1956)年に、没後90年を記念して建立された。夜にはライトアップもされている。
高杉晋作(1839~1867)
天保10年8月20日、に萩藩大組士、高杉小忠太の長男として生まれる。幼少時は私塾に学び、後に藩校明倫館、19歳で松下村塾に入門。頭角を表し、久坂玄瑞と並んで「松門の双璧」と称される。
※写真は萩市の
高杉晋作誕生地より
文久2年(1862)、藩命により情勢視察で上海へ渡航。欧米による支配を目の当たりにし、日本も同じ憂いき目をみるのではないかと危機感を募らせ、翌年久坂玄瑞らと共に攘夷運動を行う。
下級武士や庶民など身分を問わない軍事組織「奇兵隊」を結成。初代総督になる。
1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊による攻撃での敗北、禁門の変の敗走により、藩内は俗論派(保守派)が実権を握り、幕府に恭順の意を示すために攘夷派に対して粛正を始める。
身の危険を感じた晋作は九州に逃れるも、再び下関に戻ると功山寺に落ちのびていた三条実美ら卿を前に、「
これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と告げ、12月16日に功山寺にてわずか84名で決起。
萩藩新地会所を急襲後は、品川弥二郎や山田顕義なども呼応し、最後まで時期尚早と決起に反対していた山縣狂介(後の山縣有朋)も合流し、俗論派を退けることに成功する。
その後、藩論を「武備恭順(表向きは幕府に従うが、武備は増強)」に統一し、一気に倒幕へと突き進む。
慶応2年(1866)年6月、第二次長州征伐(四境戦争)が始まると、晋作は海軍総督として小倉口で活躍。
しかし、持病の肺結核が悪化し戦線離脱。翌年の4月14日に下関市新地にて討幕を見ることなく死去。享年29。
写真は「高杉晋作終焉の地」
功山寺挙兵がなければ明治維新は30年も遅れていたと言われ、後に伊藤博文は晋作を「
動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし」と評している。
日和山公園からは
海峡ゆめタワーが見える。
関門海峡のランドマークでもある、海峡ゆめタワーの高さは153m。頂上球形総ガラス張り展望室は世界初で、その展望室(地上143m)からは、関門海峡、巌流島、響灘、九州と、360度の景観が楽しめるようになっている。
桜と海峡ゆめタワー、そして関門海峡、北九州が一緒に撮れる好スポット!
日和山公園はそれほど大きくはないので、桜が密集して気持ちがいい。
夜桜も楽しめるようになっている。
旅をする際は、前もって車をどこに停めるか決めておいた方がいいだろう。
桜吹雪がとてもきれいだ。
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