本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
この地は清水山と称し、幕末の頃に奇兵隊軍監・山縣有朋は麓に草庵を建て無隣庵と名付けました。 慶応3年(1867)、高杉晋作の遺言により遺骸を奇兵隊の本拠に近いこの地に葬り、出家した愛人おうの(谷梅処)に、山縣は明治2年(1869)に無隣庵を贈りました。
現在の庵は明治17年(1884)伊藤博文・山縣有朋・井上馨等の寄付により建立されたもので梅処は明治42年(1909)にその生涯 を閉じるまで東行の菩薩を弔いました。
東行池には数百本のハスがあり、 7月中旬にかけて咲き誇っています。
今ではすっかりハスの名所となった東行庵。名所としてはまだ新しく、ハスが目立ち始めたのは2017年前後くらいじゃないかなあ。
奥に見える建物は、天然ラドン温泉 晋作の湯。文久2年(1862)、藩命により情勢視察で上海へ渡航。欧米による支配を目の当たりにし、日本も同じ憂いき目をみるのではないかと危機感を募らせ、翌年久坂玄瑞らと共に攘夷運動を行う。
下級武士や庶民など身分を問わない軍事組織「奇兵隊」を結成。初代総督になる。1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊による攻撃での敗北、禁門の変の敗走により、藩内は俗論派(保守派)が実権を握り、幕府に恭順の意を示すために攘夷派に対して粛正を始める。
身の危険を感じた晋作は九州に逃れるも、再び下関に戻ると功山寺に落ちのびていた三条実美ら卿を前に、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と告げ、12月16日に功山寺にてわずか84名で決起。
萩藩新地会所を急襲後は、品川弥二郎や山田顕義なども呼応し、最後まで時期尚早と決起に反対していた山縣狂介(後の山縣有朋)も合流し、俗論派を退けることに成功する。その後、藩論を「武備恭順(表向きは幕府に従うが、武備は増強)」に統一し、一気に倒幕へと突き進む。
慶応2年(1866)年6月、第二次長州征伐(四境戦争)が始まると、晋作は海軍総督として小倉口で活躍。しかし、持病の肺結核が悪化し戦線離脱。翌年の4月14日に下関市新地にて討幕を見ることなく死去。享年29。遺言により清水山に葬られた高杉晋作(東行)を弔う愛人おうの(後の谷梅処)の為に山縣有朋から譲られた庵。
現在の庵は明治17年に、伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国の諸名士からの寄付により建立されたもので、梅処は明治42年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。東行庵のハス
旅をした日
2019年07月07日
2022年07月10日
2022年07月17日
………………………………………開園時間 / 入園料
特になし
………………………………………東行記念館(開館時間)
9:30~17:00
休館日
月曜日(祝日は開館)
拝観料
大人300円・小学生200円
………………………………………駐車場
有り(無料)
………………………………………東行庵の見どころ
梅と桜
花菖蒲
もみじ谷
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
奇兵隊陣屋跡
木屋川ラブリバーパークの桜並木
………………………………………最終更新日
2023/06/30
新しく追加