本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
花菖蒲の名所としても知られる下関市の東行庵。
100種6,000株が咲き乱れ、花菖蒲祭りも開催されていましたが、現在は約30種類、1,000株に縮小されています。
文久2年(1862)、藩命により情勢視察で上海へ渡航。欧米による支配を目の当たりにし、日本も同じ憂いき目をみるのではないかと危機感を募らせ、翌年久坂玄瑞らと共に攘夷運動を行う。
下級武士や庶民など身分を問わない軍事組織「奇兵隊」を結成。初代総督になる。1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊による攻撃での敗北、禁門の変の敗走により、藩内は俗論派(保守派)が実権を握り、幕府に恭順の意を示すために攘夷派に対して粛正を始める。
身の危険を感じた晋作は九州に逃れるも、再び下関に戻ると功山寺に落ちのびていた三条実美ら卿を前に、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と告げ、12月16日に功山寺にてわずか84名で決起。
萩藩新地会所を急襲後は、品川弥二郎や山田顕義なども呼応し、最後まで時期尚早と決起に反対していた山縣狂介(後の山縣有朋)も合流し、俗論派を退けることに成功する。その後、藩論を「武備恭順(表向きは幕府に従うが、武備は増強)」に統一し、一気に倒幕へと突き進む。
慶応2年(1866)年6月、第二次長州征伐(四境戦争)が始まると、晋作は海軍総督として小倉口で活躍。しかし、持病の肺結核が悪化し戦線離脱。翌年の4月14日に下関市新地にて討幕を見ることなく死去。享年29。遺言により清水山に葬られた高杉晋作(東行)を弔う愛人おうの(後の谷梅処)の為に山縣有朋から譲られた庵。
現在の庵は明治17年に、伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国の諸名士からの寄付により建立されたもので、梅処は明治42年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。2017年06年14日、東行庵への一人旅。ん? 2017年の花菖蒲? なんと、前回から5年が経ってるのか…。
東行庵自体は毎年来てるので、そんなに月日が経ってるとは思わなかったな。規模も小さくなっていて驚いた。以前までは右の写真のように花菖蒲があったけど、今ではこれがまったくなくなって、少し離れたところにハスが浮かんでいた。
縮小した理由は分からないけど、見応えがあっただけに残念だ。今後はハスにも力を入れていくのかな? どちらにせよ、勝負の名所としては魅力が半減したのは確か。
撮影していても周りから「規模小さくなってる!?」という声が多く聞かれた。過去は下関屈指の花菖蒲名所だけあって、平日でも大勢の観光客で賑わっていた。
小学生や幼稚園児の見学も多い。でも、花自体への興味は少ないようだ(笑) でも楽しそうな光景がいいね。ベンチに座って藩菖蒲を楽しむことができるので。満開だと会話も弾むことだろう。
菖蒲園周辺はとても明るい雰囲気に満ちていた。曇りで涼しかったせいでもあるだろう。晴天では暑くて長居はできそうにない(笑)東行庵の花菖蒲園
旅をした日
2009年06月08日
2012年06月11日
2017年06月14日
………………………………………開園時間 / 入園料
特になし
………………………………………駐車場
無料
………………………………………東行庵の見どころ
曲水の梅苑と桜
ハス
東行庵もみじ谷
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
奇兵隊陣屋跡
木屋川ラブリバーパークの桜並木
………………………………………最終更新日
2023/06/30
東行庵の見どころにハスを追加