本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
東行庵は明治17年(1884)伊藤博文・山縣有朋・井上馨等の寄付により建立されました。出家した愛人おうの(谷梅処)は、明治42年(1909)にその生涯を閉じるまで、奇兵隊の本拠に近いこの地に葬られた高杉晋作(東行)の菩薩を弔いました。
東行池周辺には200株のつつじが植えられており、4月下旬に見頃を迎えます。![]()
高杉晋作(1839~1867)文久2年(1862)、藩命により情勢視察で上海へ渡航。欧米による支配を目の当たりにし、日本も同じ憂いき目をみるのではないかと危機感を募らせ、翌年久坂玄瑞らと共に攘夷運動を行う。
下級武士や庶民など身分を問わない軍事組織「奇兵隊」を結成。初代総督になる。
1864年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国連合艦隊による攻撃での敗北、禁門の変の敗走により、藩内は俗論派(保守派)が実権を握り、幕府に恭順の意を示すために攘夷派に対して粛正を始める。
身の危険を感じた晋作は九州に逃れるも、再び下関に戻ると功山寺に落ちのびていた三条実美ら卿を前に、「これより長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と告げ、12月16日に功山寺にてわずか84名で決起。
萩藩新地会所を急襲後は、品川弥二郎や山田顕義なども呼応し、最後まで時期尚早と決起に反対していた山縣狂介(後の山縣有朋)も合流し、俗論派を退けることに成功する。その後、藩論を「武備恭順(表向きは幕府に従うが、武備は増強)」に統一し、一気に倒幕へと突き進む。
慶応2年(1866)年6月、第二次長州征伐(四境戦争)が始まると、晋作は海軍総督として小倉口で活躍。しかし、持病の肺結核が悪化し戦線離脱。翌年の4月14日に下関市新地にて討幕を見ることなく死去。享年29。
遺言により清水山に葬られた高杉晋作(東行)を弔う愛人おうの(後の谷梅処)の為に山縣有朋から譲られた庵。
現在の庵は明治17年に、伊藤博文・山縣有朋・井上馨等全国の諸名士からの寄付により建立されたもので、梅処は明治42年にその生涯を閉じるまで東行の菩提を弔った。
東行庵は梅や桜、紅葉、花菖蒲が有名なんだけど、つつじも咲いている。他に比べてやや知名度は低いけどね。
※花菖蒲場所は新しく整備されていたので、この写真の見え方とは少し違うと思う。
自分も旅をしたのをすっかり忘れていて、更新まで忘れていたというね(笑)
東行庵でつつじが咲いているのは主に東行池の周辺。規模は約8200平方b。およそ200株のツツジ。他の名所に比べれば若干株数が少ないけど、ここは水面に映るつつじの写真が撮れる利点がある。
近年は花菖蒲が縮小されているけど、当時はまだ花菖蒲が多く植えられていたね。花菖蒲の方が人気もあった。
花菖蒲は咲いていないけど、雰囲気があって好きだった。


藤棚の藤もきれいに咲くので、GWの旅候補地にしてもいい。近年は温暖化のせいで、開花が早まっているのが気になるけど。
横山白虹、房子の句碑
横山白虹は本籍地が長門市、医学博士で現代俳句協会長、北九州文化連盟会長を歴任。
梅寂し人を笑はせをるときも 白虹(昭和34年作)

