本州最西端に位置し、三方を海に囲まれ自然美にあふれた山口県。
今日はどこを旅してみようかな♪
早鞆(はやとも)の瀬戸と言われる関門海峡の一番狭まった所に位置するみもすそ川公園。潮流の速さは日本有数で、「日本の音風景100選」に選ばれた関門海峡の潮騒と汽笛の音を楽しむことができます。
源平合戦の最後となる壇ノ浦の戦いが行われた古戦場であるとともに、幕末の攘夷戦で長州藩が外国船に砲撃した砲台跡でもあります。
みもすそ川公園中央には、八艘跳びの源義経像と錨を担いだ平知盛像が設置されている。まずは源平合戦の最後となった壇ノ浦の戦の歴史を紹介しておこう。
壇ノ浦の戦い(1185年3月24日)
平安時代末期に6年にわたる大規模な内乱「治承・寿永の乱(源平合戦)」が繰り広げられ、壇ノ浦の戦いは源氏に敗れた平家が滅亡に至った源平合戦最後の戦い。
治承4年(1180)に源頼朝が平清盛を中心とする平氏政権打倒に向けて挙兵。各地で戦いが続き中国・四国・九州を制圧された平家は下関市の彦島で孤立してしまう。彦島の平家を倒すべく、義経は840余艘の水軍を編成。平家は500艘であったが、大将・平知盛は得意な海上戦で挽回を狙った。
関門海峡は狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の向きも変わるという特徴がある。午前に始まった合戦は開戦直後は激しい東流れの潮流を利用した平家が優勢に進めると、不利を悟った義経が掟破りの平家水軍の非戦闘員の水手・梶取を射させる戦法に出る。平家方に混乱が生じて源氏が優勢に変わると源氏方へ裏切る者も相次ぎ、昼近くに潮の流れが西に変わると攻勢は完全に逆転し平家は壊滅状態となった。
敗北を悟った平家一門は次々と海へ身を投げていった。せめて大将の義経だけは道連れにと平家きっての武将・平教経は義経の船に乗り移り追いつめるが、義経は飛び上がり船から船へと飛び移り逃げていった。俗にいう「八艘飛び」である。
死を決意した二位の尼(平時子)も源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて入水した。後を追った帝の母・建礼門院(平徳子)は入水するが生き残り、京へ送還される。海へ身を投げた平家一門の最後を見届けた知盛ら主要武将も次々と入水。総帥である宗盛も息子と入水するが引き上げられ捕虜となり、壇ノ浦の戦いは終わった。
以後、平家一族は歴史の表舞台に再び現れることはなかった。みもすそ川公園の名の由来は、8歳の安徳天皇を抱いて入水した二位の尼の辞世の句「今ぞ知る みもすそ川の御ながれ 波の下にも都ありとは」によるもの。
ちなみに、みもすそ川を感じで表すと「御裳川」 となる。壇ノ浦の戦い ~義経の八艘飛び編~
伝説の多い牛若丸こと源義経。像に模られるように壇ノ浦の戦いでは、6mも離れた舟へ飛び移った八艘跳びが有名。
壇ノ浦の戦い ~平宗盛編~
平清盛の息子(三男)であるが愚鈍で傲慢、さらに臆病という性格だったという説がある。
宗盛の醜態は最後の最後まで続いた。平家の敗北が決し一門が次々と入水していく中、宗盛はぐずぐずして入水しなかった。それを見ていた一門はあまりの情けなさに激怒。とっつかまえて無理矢理海へ突き落としたが、泳ぎが得意だったため、さらに逃げ回ったという。
一方、妻子への情愛を持った優しい人物だったようだ。壇ノ浦の戦い ~平家の一杯水~
壇ノ浦の戦いでは捕虜になる者、入水する者以外に、深手を負い命からがら岸に泳ぎ着く武将もいた。傷ついた武将が岸で小さな湧き水を見つけ、喉を潤そうとすすったその水は真水であったという。
壇ノ浦の戦い ~平家蟹と小平家~
壇ノ浦や北九州沿岸で獲れる蟹は甲羅に怒りに満ちた顔のような模様があるが、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の亡霊が乗り移ったためだという伝説がある。
源義経のその後
兄の源頼朝により平家打倒に派遣された義経だったが、源平合戦における作戦を独断で行う越権行為や、頼朝の許可なく後白河法皇より任官されるなどして頼朝の怒りを買ってしまう。
みもすそ川公園の前に広がる関門海峡。対岸は福岡県北九州市門司区で、本州とは関門大橋で繋がれている。
夜は門司の夜景と関門大橋のライトアップ。日本の音風100選の関門海峡の潮騒。夜のデートスポットには欠かせない名所だ。ネックになるのが専用の駐車場が無いというくらいか。国道を挟んで反対側に関門トンネル人道に駐車場があるが台数が少ないので満車ということがほとんどだ。
JR下関駅からバスを利用して「御裳(みもすそ)川」下車というアクセスもあるが、こちらは約15分かかってしまう。公園前は早鞆(はやとも)の瀬戸と言われる関門海峡の一番狭まった場所で、幅は約600m。泳ぎが得意ならば対岸まで泳いで渡れるかも? と思うかもしれないが、潮流の速さは日本有数なので絶対に泳げない。
間近で見ると分かるが、一瞬で流される速さだ。関門海峡一日約650隻もの船が行き交うが、その速さと狭さの関係で事故も発生している。壇ノ浦の戦いから700年近く経った1864年、再び関門海峡が歴史上に現れる。
幕末の長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカ四国との武力衝突事件、いわゆる下関戦争だ。当時ここの長州砲台がどうなったかというと、強力な四国連合艦隊(17隻延べ5,000人以上の兵力)によって無力化。
長州藩は武力での攘夷(じょうい:江戸末期の思想で、武力行使で外国人を退けること)を放棄し、海外からの技術や知識を取り入れるようになる。そして坂本龍馬らの仲介により薩長同盟が結ばれ、倒幕への道を歩んでいくこととなった。歴史背景を知れば観光もさらに楽しくなるよね♪
旅相棒は何を想い海峡を眺めているのだろうか? 平家一門の無念さだろうか。それとも「今日の昼は何を食べようかな?」…かな?源義経像と平知盛像も22時までライトアップされている。
関門橋は(5~8月:20時~23時)、(9~10月:19時~22時)、 (11~1月:18時~21時、(2~4月:19時~22時)。みもすそ川公園
旅をした日
2005年05月02日
2005年10月03日
2006年07月17日
2009年04月05日
2011年08月28日
2012年09月25日
2013年06月24日
………………………………………開園時間/入園料
特になし
………………………………………義経・知盛像ライトアップ
日没~22:00
………………………………………駐車場
関門トンネル人道駐車場利用
………………………………………周辺の立ち寄りスポット
関門トンネル人道
火の山公園
火の山トルコチューリップ園
赤間神宮
………………………………………最終更新日
2023/12/06
内容追記